第1節 はじめに
第1項 [情報源 (現在のメディアに於ける情報ツールについて)]
[フィッシュマガジン・刊行本・不定期刊行ムック本「らんちゅうカタログ」]
私達初心者やらんちゅう飼育を志した人達がまずあたる壁はその情報量の少なさである。
どこへ行けばどうような情報に巡り合えるかという指針は、現状では思いのほか少ないと
言わざるをえない。
月刊誌の「フィッシュマガジン」は老舗でもあり、唯一の定期的な情報誌でもありその意味
において金魚界のオピニオンリーダーと位置づけられるだろう。しかしながら、その情報量
はらんちゅう飼育者にとって、必ずしも値段に見合うだけの情報が得られるとは言い難い。
刊行本からの情報はと言えば、「フィッシュマガジン」を発行している緑書房が精力的に、
特定金魚をあくまでマニアックに刊行を続けている。だがしかし、概ね「フィッシュマガジ
ン」誌をまとめた形のものなども多く散見され、中には珠玉の写真集等もありそれなりに楽
しませては貰えるが、その出版ペースは私達を満足させるにあまりにも遅い。
また、マニアックなるが故に発行部数も少ないので、1冊のプライスは高価になり
誰も彼もが気軽に素晴らしい金魚を鑑賞するということが出来るとは言えない。
不定期刊行ムック本「らんちゅうカタログ」は成美堂出版が発行しているもので、この本
はある意味では一番の金魚飼育者を増やした画期的な本と位置づけても良いのではないだろ
うか。多くの金魚・らんちゅうの写真が美麗に撮影され、レイアウトもあくまで見やすく、
しかも初心者をも十分ターゲットに入れて飼育の要点も纏め上げられている。値段も情報量
から言えば格安と受け止められる。
唯一の弱点は不定期刊行といえるだろう。多くの愛好者が待ち望んでいたにもかかわらず、
昨年は遂に発行されなかった。
以上のように見ていくと、緑書房の長年に渡る金魚・らんちゅうの普及に対する功労に対し
ては頭が下がる思いであり、敬意を表したいが如何せん、出版と言う紙のメディアの情報の
みでは、その情報の即時性は到底望めないと考えられる。
[愛好会の情報は皆無]
個別的に見ていくと、各愛好会にはその独自の情報は存在している。しかしながらその情報
はその会の中での流通のみで、全くと言っていいほど会の外には出ないと言って差し支えな
いだろう。
例えば、病気の情報、品評会の情報等は広く多くの愛好者が共有すべき情報であるが、現状
ではそれもなされていない。
趣味である以上、飼育の極意というものがあってそれを見ず知らずの不特定多数に情報開示
をする必要はないと私は考えるが、同じ飼育者として共有財産としての情報は間違いなく存
在していると思われる。
らんちゅう・金魚飼育者としての喜びとは、自分の愛魚を広く多くの人に見てもらい、認知
してもらうのが、何よりも励みになり幸せであるということである。その意味でその会での
み流通する会誌以上に新しいメディアの発掘に対し各会は寛容であるべきであろう。
また、各愛好会が発展する為には今以上にらんちゅう・金魚飼育者の裾野を広げる
努力を厭わないであるべきだと私は考える。
[個人的メディアとしてのWebページの意義]
上記の趣旨からインターネット上での個人の運営するWebページは今後、重要な意義を持って
くるのではないだろうか。または各会がページを持ち、一大リンクが出来上がればそれはまさ
しく画期的なことであるだろう。会派を越えた情報の交換は趣味の世界を十分に幅広くする可
能性がある。
営利目的ではないことが、強いてはより充実した趣味の世界を切り開く可能性を持ち合わせ、
それぞれの立場を尊重できるメディアとして立ち現れると思われる。これまでのらんちゅう・
金魚飼育が私的で自己満足的であったものから、大いに広く同好の士を求める流れに変わりつ
つあることを認識する時期に来ていると断言してもいいのではないだろうか。
二次的な要素ではあるが、忘れてはならない重要な点をあげれば、このインターネットという
メディアが出版物と違い、はるかにコストがかからず維持が容易なことに着目しなければなら
ないだろう。
[資料としての閲覧性を重要視すること]
Webページで求められていることとは、情報もさる事ながら個々の画像であることは間違いない。
判りきったこととは言え画像は最重要なものとして考え、出来うる限りの工夫を施し、快適に
閲覧出来ることを第一義と考えなくてはならない。
[依然として秘匿性は残るがそれは黙認すること(何故なら趣味であるから)]
しかし、上でも触れたが、秘匿性とはWeb上での情報の開示が憚れるものは依然として存在して
いると考えられる。趣味においては「密かな」趣味という領域、つまり特定の人間のみが知り
うる情報を持つことの喜びもまた存在している。
[秘伝的要素・系統を重んじるのであればあって当然(個人としての力量が問われる)]
秘伝的要素は秘匿性と同様の意味だが、また系統を重要視するのであればその要素は、趣味の
世界における「希少性」というものに関連してくる。誰も持っていないものを自分が獲得して
いるということ。これもまた許容されるべきことだと思われる。
このことは、Webページの閲覧性と相反することのように思われるが、一定のレベルでの情報以上
を求めるのであれば、各個人の努力、力量に掛かっていると判断されるべきであろう。具体的に
は、特定以上のレベルの情報は待ちの姿勢からは何も生まれてこないという従来からの法則?が
あり、自らアクティブに情報を求めていかなければいけないことは何も変わっていないというこ
とである。つまり、目的の情報への最短距離をページが提供しているという認識をして欲しい。
第2項 [京都筋に関する参考文献]
さて、「京都筋」に関する情報だが、少ない情報の中でもさらに少ないと言っても過言ではない
だろう。そのことに関しては当Webページでも再三触れているのでここでは省かせてもらう。
本論に入る前に、私が参考または引用する書籍の所在をここに明らかにしておく。
また、本論を進めるに当たって関係諸氏にご迷惑がかかる部分があるようなら削除訂正及び加筆
を考えているので御了解願いたい。あくまでも私の理解での見解であるので不足は必ずやあるか
と思うので諸兄の暖かい助言を待つのは言うまでもない。
書籍名 |
出版社 |
著者 |
備考 |
フィッシュマガジン各刊 |
緑書房 |
主に井上外喜夫氏著述 |
入手可能 |
蘭ちゅう花伝 |
緑書房 |
|
入手可能 |
金魚のすべて |
マリン企画 |
長澤兵次郎氏 |
入手可能 |
現代銘魚作出の秘訣 |
緑書房 |
佐久間清次・沢田久治・長谷川博康各氏 |
入手可能 |
らんちゅう飼育の手引き |
|
宇野仁松氏 |
入手困難 |
蘭ちゅう銘鑑(上) |
緑書房 |
|
入手可能 |
金魚と日本人 |
三一書房 |
鈴木克美氏 |
新刊 |
金魚の上手な飼い方 |
日本文芸社 |
桜井良平氏 |
入手可能 |
さらに、今後参考文献が増える可能性が大なので(現時点で入手不可能な文献、資料がかなりあ
る為。)随時追加し、比較検討を重ねながら考察を進めていく予定である。予告なく項目や文章
を加筆訂正することをここにお断りしておく。
第2節 [京都筋の特徴]
詳しくは以下で見ていくことにするが、はじめて耳にされる方も居られると思うので簡単に説明
しておこう。
らんちゅうは、系統を特に重んじる金魚であり、昔から諸先輩達が品種の改良に努めてきた魚で
ある。全国には幾多の愛好会があり、プロ、アマ問わず多くの愛好家が日夜自分の理想とする魚
の作出に励んでいる。
その中でも、らんちゅうは現在において大きく二つの系統(会派)に分けられる。その一つが石川
宗家を頂点とする愛好会の集まりである「日本らんちゅう協会」である。もう一つが、これから
詳細に見ていく宇野仁松先生が作出された魚を理想に飼育改良をする会派である。その魚の系統
を俗に宇野仁松先生のご活躍された土地名を取って「京都筋」または名前を取って「宇野系」と
称する。
私達が一般に目にすることの出来る「らんちゅう」とは主に協会系の魚であろう。
かく言う私も琵琶湖金鱗会にお世話になるまでは、京都筋や宇野先生の名前こそ知れ、どのよう
な金魚がそれにあたるかも全く知らなかった。
協会系の魚は、概して大振りの魚で骨格がしっかりした魚であることはどなたも異論はないだろ
う。金魚の色合いよりもその体型や所作に重きを置いているのは、品評会での魚を見れば歴然と
しているといえる。
一方、比較論になるが、京都筋の魚はそれに比べれば小振りであることは確かである。このWeb
ページを見て頂いた諸兄にはもうご理解頂いているとは思うが、その魚は鱗並びが美しく、しか
も鱗の密度が細かい。いわゆる肌の奇麗な魚である。肉瘤に関してもその付きかたは独特で、
概して良く揚がる系統である。 あと、好みではあるが、尾はしなやかに華麗さを感じさせる。
ここで断っておくが、私はどちらの系統の魚も否定はしない。趣味である以上、嗜好の点でどち
らも両立出来るものと考えている。しかし、私の好みや美的感覚からすれば、より京都筋のまた
は宇野先生の理想とした魚に傾倒するということである。
第3節 [らんちゅうの歴史]
そもそものらんちゅうとはどのような過程を経て成立したのであろうか?
この節では、それを江戸時代まで溯って見てみることにする。
江戸時代には、「らんちう」と呼ばれる金魚に三つのタイプがあった。
一番目には「おほさからんちう」で、体全体が小判型で頭が大きく、胴は太短くて後方が細い。
ひれも短く、尾びれは三つ尾または四つ尾。頭にコブがない。「らんちう」の原形に近いもので、
大坂を中心に、上方およびそれ以西の中国、四国、北九州で古くから飼われていた。
[金魚と日本人、100ページ]
二番目の「らんちう」は「ししがしららんちう」で、今日一般に「らんちう」といえば、獅子頭
のあるこの金魚ばかりになったが、その歴史は古くはない。[金魚と日本人、102ページ]
幕末になってようやく、獅子頭のあるランチュウが現れたこと[金魚と日本人、103ページ]
三番目の「らんちう」は、「なんきん(いづもなんきん)」と呼ばれ、江戸時代から出雲地方で飼
育されていた。頭が小さくて獅子頭ではなく、体の後方がふくらんで、全体が卵形をしている。
他のひれが短く、「まるこ」や「おほさからんちう」との共通点はあるが、全体の印象は違う。
[金魚と日本人、104ページ]
こうやって見ていくと、江戸時代には三つの種類の「らんちう」が存在していたことがわかる。
「おほさからんちう」「ししがしららんちう」「なんきん」ということになる。さらに「おほさ
からんちう」は現代とは違い隆盛を極め、1800年代にはじめての品評会の番付表として記録が残
っている。そして多くの決め事がこの時に作られたのではないか。例えば体色について。本国錦
・六鱗・両奴等々。
しかし、今では「おほさからんちう」は絶滅して存在しない。また「なんきん」は依然として出雲
地方を中心に飼育はされているが、その伝統を絶やすまいと篤志家の手によって細々と飼育されて
いるのに留まっている。
翻って、現代では「ししがしららんちう」は「らんちう」の代名詞となっている。
そして、その現代のらんちゅうの基礎を作ったのが言わずと知れた石川宗家である。3代目一世
石川亀吉翁、4代目石川亀吉翁の手で維新から明治の初めにかけてその姿は完成されたと言われる。
ここでひとつ、何故「おほさからんちう」から「ししがしららんちう」にその人気と人の趣向が
変わっていったかを考察すると、恐らく、江戸時代初期と後期の文化的相違も考えに入れなくて
はならないだろう。つまり、上方文化全盛から江戸前文化への移行、金魚もまたその文化ととも
に衰退を繰り返したのであろう。金魚を文化として、そして金魚の変遷を文化史として俯瞰する
視点を私達は忘れてはならない。
近代に移り、「おほさからんちう」と「ししがしららんちう」が並立する時代がやってくる。
「おほさからんちう」は「大坂らんちゅう」または「関西らんちゅう」と言い習わされ、「しし
がしららんちゅう」を「関東らんちゅう」と言うようになる。この頃からどちらの鑑賞態度も相容
れないものがあったと聞く。
その頃、いち早く関西において「関東らんちゅう」に注目し、その独特の卓越した鑑識眼から、
独自の魚を作出されたのが宇野先生である。要するに、「京都筋」自体は、「関東らんちゅう」
からの出自であるということだ。
その辺の事情は後述することにして、では以下において、その近代から現代におけるらんちゅう
界を垣間にみてみよう。
第4節 [「らんちゅう花伝」を読み解いて]
この節においては、緑書房発行の「らんちゅう花伝」を下敷きにらんちゅう界をみていくことにする。
この本は明治・大正・昭和のらんちゅう界の大御所達が一堂に会する豪華な顔ぶれで私達を魅了してくれ
る。さらに、読む人によってその先人の言葉は大きなヒントを与えてくれるであろう貴重な本である。各
会の裏事情も読み取れるだけに、興味のある方には必携の書物である。
この現代らんちゅうの元祖と言えば石川宗家、その宗家のお膝元の愛好会が「観魚会」であるのは衆知の
事実。その成り立ちの話ははしょって論を進めると、明治時代終わりの頃に、交通が発達するに従って各
地方に続々と愛好会が発足する。
明治三十四年に浜松錦友会、大正元年に京都金鱗会、翌年に大阪錦蘭会が発足(発足年については諸説が
ある)。各地方の有力な会がこの時点で相次いで結成されたことになる。私達が見落としてはならないこ
とをここに一つ付け加えておくと、時代背景も頭に入れておかなければならないということだ。明治時代
を超えて交通の整備による情報網の発達、魚の移動の容易さ、社会的気運としての文学芸術の世界におい
ては大正ロマン、政治の世界では大正デモクラシー、これらは決して無関係ではないと推測される。
そのような時代の流れより、らんちゅう界はひとつの大きな潮流として「全日本らんちう連盟」に大同団
結する時期を迎える。前述した「観魚会」を中心に各地方の有力会が持ち回りで品評会を開催するように
なる。
そして「全日本らんちう連盟」は第二次大戦後、昭和三十一年「日本らんちゅう協会」へと紆余曲折はあ
りながらも発展的に解消されていく。加えて宇野先生は連盟結成に尽力されたとのことである。
第1項 [金鱗会のこと]
上記のように京都金鱗会は伝統のある会である。当初は東京の人が主体に結成されたようだが、宇野先生
は2年目より参画されたようだ。その間、先生は「観魚会」の審査員もされ、その後「日本らんちゅう協
会」の役員も歴任されている。
上に見るように発会当時においても、先生の鑑識眼は関東でもつとに有名で、東の山崎節堂氏、西の宇野
仁松氏と並び称されていた。いわゆる京都筋が形成されるまでの昭和の時代はこのように、金鱗会を中心
に先生は活躍されていたようだ。
現在でも各地域には先生の息の掛った「金鱗会」はいくつも残っている。我が会も京都金鱗会より派生し
た会である。しかし、先生が亡くなってからはあまり交流はないようである。
第2項 [錦蘭会と金鱗会]
当「らんちゅう花伝」で初めて私も知ることになるのだが、宇野先生は錦蘭会にも深く関与されていたよ
うだ。「京阪の愛魚家飼育問答」の項では、宇野先生は「日本らんちゅう協会理事」として登場し、寺崎
吉彦氏(現日本らんちゅう愛好会会長)は「錦蘭会会員」として名前を連ねている。昭和47年当時。
また、フィッシュマガジンの井上外喜夫氏の記述の中には、
この会の創立には、京都金鱗会故宇野仁松氏がまだ仁松を襲名していない仁平時代から会長をされ…
[「らんちゅう紀行」震災に遭ったらんちゅう愛好家大阪・錦蘭会を参照]
と意外な事実も紹介されている。また、このように先生は精力的に各会とも深く関わりを持ちながららん
ちゅうの発展に寄与されたことが伺える。
第3項 [観魚会と金鱗会]
京都金鱗会は前述のように、発会当初、石川宗家の魚を中心に各地方のらんちゅうを見て周り親魚を導入
していったようだ。早い時期より京都人の気質にも代表される関東との対抗意識は独自の魚の創出へと向
かわせる。[1998.2.14]next→ |