第4項[京都筋の生成過程、要するに宇野系の成立過程]
 この「らんちゅう花伝」において最も注目すべき点は、寺崎氏との対談の中、宇野先生は、いわゆる先生の求めてきたらんちゅうのルーツを明かしていることである。私達日本人が、どこから来てどのような形で日本人として形成されたのかという日本人のアイデンティーを希求するのと同様に、私たちが最も知りたい項目であることは確かである。

 あえて結論を先に申し上げよう。宇野系の元魚は鈴木徳治氏の魚筋と言える。巷間、宇野系の元魚は尾島氏の魚筋というひとつの見識があるようだが、本書に奇しくも書かれていることは、そのことが正確ではないことを如実に物語っている。その意味で本書は、伝聞以上の資料的価値を持っていると確信する。以上のことを本文に沿って確認していこう。

「いちばん秩序立てて科学的にやってくれたのは鈴木徳治という人でね」209ページ

「鈴木さんはもとはニワトリで遺伝のことを研究しておられたんやそうです。お金持ちでひまのある、浅草一の大地主さんでしたから。ニワトリで研究やっておられるところへ、石川の金魚見て好きになられたらしいんですね、それで金魚に乗りかえて、ずいぶん、秩序立てて研究してもらったんです。その時分そこの金魚は鱗の並び方、頭の出かた、残る金魚の率とか、そういうものが、がらっと違いました。私はそこの金魚にほれこんで、そこの金魚でなかったら東京から持って帰らなかったですよ。」209〜210ページ

 さらに、
「そこの家が近代金魚の創始者ですよ。」210ページ
とまで言わしめているのには正直なところ驚きを隠せない。

「そのあとすこし間があいて、私らがまともな金魚を作り出した時分に、尾島さんという人が出てきて、この人は鈴木さんほど科学的にやってませんけど、とにかく目で見て、いいもの、いいものとやってきたですね。」210ページ

「私が知ったのが昭和の十年になりかけていたんでしょうね、尾島さんのは鈴木さんほど統一してませんでしたね。味魚とかいうて、尾の味をやかましゅういわれてね、尾はたしかにだいぶ改良されたように思います。」210ページ

 
「らんちゅう花伝」の中にしばしば登場するその鈴木氏に関して、裏づけとなる重要な証言を尾島氏ご本人から聞き出している一文が、「日本らんちゅう愛好会二十周年記念写真集」に掲載されている。

「私(尾島氏)の魚筋は、昭和十二年から毎年人を介して鈴木さんの魚をお願いし続け、やっと十七年にメス一匹が手に入り、盛田さんのオスと掛け合わせが出来て、その後、尾島の筋と言われ始めは戦後二十三年頃でした。」日本らんちゅう愛好会二十周年記念写真集 対談に寄せて カッコ内は筆者による

以上は、宇田川 英雄氏の一文からの引用だが、尾島氏を訪問されて直にお聞きしていることだそうだ。
ここでも分かるように、尾島氏の元魚も宇野先生の元魚も、極論すれば同系統であるといえる。だから宇野系の元魚が尾島系であるという説は間違いである。順序的には尾島氏のほうがあとなのだから。

 尾島茶尾蔵氏について少し触れると、東京の愛魚会を昭和十七年に作られ、尾島系の創始者だそうだ。上にも触れたように当時の実力者のひとりで、方向的には宇野先生と同じく魚の見えていた方であろう。尾島氏が鈴木氏の系統を導入されて筋として確立したのが二十三年とご本人が証言されているのは、最低ひとつの筋として定着させるには五年を要するところをみると、つじつまが合い確実な貴重な証言と思われる。

 但し、宇野先生の言には、そうは言いながらも後のページでは以下のような発言もあったことを付言しておこう。

「(尾島氏の系統で)体の斑が、特有の斑をもっておったんです。その斑なりとれればと思って、私はあの時六匹その兄弟を貰うて来たんです。それが私のところの、今の金魚の土台をだいぶ作ってますわ。」216ページ カッコ内は筆者による

 つまり、こうだ。らんちゅうの基礎を築いたのは、言うまでも無く石川宗家である。宗家の魚より、鈴木徳治氏が近代金魚として改良した魚が元になり、宇野先生が早い時期より注目しその魚筋を導入した(大正・昭和初期)。その後尾島氏が頭角を表し、独自に改良を加えた(戦後昭和二十三年頃)。のちにその尾島氏の系統を適宜導入することによって宇野系は確立したといえる。尾島氏の系統は、そもそも鈴木氏の系統であるので、類縁関係のある系統どうしの掛け合わせで定着率は良好であったと推測できる。

 ところが、宇野先生は、本書でことあるごとに鈴木氏の名前を出すのだが、関東の方はまるで無視するが如く、コメントを避けているふしが見受けられる。何故か。それが現在のらんちゅう界を二分する根源を言い表しているのではないかと筆者は感じるのである。鈴木氏の魚はあまりにも早すぎたのかもしれない。また、関東には氏の魚の理解者が少なかったとも推測できる。当時の(大正、昭和初期)主流とはかけ離れていたのではないか。それにしても、筆者は鈴木氏のことをより知りたいと思うのだが、誰一人として名前すら挙げないのは、不当とも思われる扱いで誠に気の毒でもある。是非関東の方には調査していただきたいものだと感じる。しかし既に手遅れかもしれない。

 ここでひとつお断りしたい。品評会を見学すると良く分かることなのだが、魚というものは、出陳者の名前を確認する前に、それが誰の魚かが分かるものである。何故そのようなことが分かるかというと、金魚は飼育方法により特有のものとなるからである。「あれは、何々さんの魚だ。」という話を会場でよく聞くのはその為である。

 要するに、上に見るように系統のルーツを追っては来たが、系統はあくまで系統である。系統は絵に例えれば、キャンバスである。その上にどのような絵を書くかによって魚は全く違ったものになるといえる。それはその個人の力量にかかっている。鈴木氏を理解し、尾島氏を理解し、宇野先生をそれぞれ理解していなければ、絵は書くことが出来ないのである。現在、系統は厳然と存在するが、それは当時の系統とは代も変わり、すでに別物と言えるもので、ここまで書いておいて申し訳ないが、ルーツにこだわることはあまり意味をなさないようにも感じる。

 らんちゅうのどこに重きをおくか、それは淘汰選別の過程でどんどん変わるものである。ましてや、完成された親まで飼育して、さらにその仔を取るという一連の作業を積み重ねてはじめて系統を理解できるのに、早期の選別によって可能性を摘み取ることが良いことか大変疑わしいことだと感じる。

 当の鈴木氏の金魚とはどういう金魚だったか、宇野先生は
「鈴木さんのとこには『鶴の舞』と名前をつけた親がおったんです。それが私の頭に、いまだに残っている金魚です。角頭で、あまり腹の張るほうでない。昔の金魚は兜巾やから胸より腹がいくらか張ってますわね。鈴木さんの金魚は胸から腹なりがスーとしている、あれは芋金魚と悪口いう人もありましたがね、芋じゃないです。背中にあんないやな肉ついてませんからね。それが一番印象に残っている。その金魚を見たとき、びっくりしたんです。あんまり違うので。」215ページ

 この発言などは、まさに宇野先生の理想としている金魚の体型を端的に表しているのではないだろうか。背の低い、輪切りにすれば円に限りなく近い胴作りで、背に峰があったり背骨のように背が盛り上がっている(宇野先生はいやな肉と表現されている)らんちゅうが多いなかで、それは全く異質の金魚と写ったことだろう。因みに「鶴の舞」は大正五、六年の魚で、先生が十五、六歳のことだと本書に書き記されている。これもまた驚きである。

 さて、ここまで見てきて、次に宇野先生は、金魚の姿形とともに、重要なファクターとして色柄について多くのことを残してくださっている。次の項でそのことを見ていくことにしよう。[2001.11.18」to be continued