醜きものへの愛おしさ


らんちゅうとは、金魚の中でも背鰭のない品種ですが、中でもらんちゅうをらんちゅうと定義する所以の第一の特徴とは、頭部に肉瘤があることだと思います。

 そもそも、明治時代より「ししがしららんちゅう」と「おおさからんちゅう」とを区別をしていたことはこのべ一ジをご覧になっている諾兄には、周知の事実でありましょう。「ししがしららんちゅう」とは頭に肉瘤のある主に関東で飼育が盛んだった品種であり、「おおさからんちゅう」は反面、頭に肉が上がるのを極度に嫌った品種でありました。

 現代では「らんちゅう」と言えぱ「ししがしららんちゅう」を指すのは言うに及ぱないことでしょう。その「ししがしら」とはまさに正月の獅子舞のあの頭部をイメージした言葉ですが、主に金魚ではその名称を冠するのは、今では「おらんだししがしら」のみとなっています。

 以上のことを念頭に置いて、私はその独特の、魚には到底無意味な代物である「肉瘤」とは如何なるものかを少し考察してみたいと思います。

 ひとつお断りしますが、この「肉瘤考」では特に肉瘤に主眼を置いての論考を進めていきますが、らんちゅうにとって肉瘤が全てに先んじると申し上げているわけではありません。肉瘤:総体的バランス:泳ぎ:色柄の全てが渾然一体となり、その姿を鑑賞することがらんちゅうの鑑賞の冥利であることをここに付け加えさせて頂きます。諾兄の誤解のないように。

 さて一般の方々の、品評会を見ての印象はどんなものだと思いますか?大きい金魚を見てまず金魚という既成概念を打ち破られて(一般の方は金魚掬いの小赤をイメージされますよね。)、まずは「大きいなあ。」という感想をお持ちになり、さらに肉瘤を見て「気持ち悪い。」と言いますよね。つまり、肉瘤は気持ち悪いものなのです、普通は。

 ならば、私達のような愛好家並びにマニアは何故そんな肉瘤を「美しい」やら「素晴らしい」と思うのでしょうか。

 古来には「虫を愛でる姫」が居たように、大半の人が生理的に忌避する蛇などの爬虫類にさえ美を見出す人間の性とは如何なるものかを解明したいと思うのであります。人間の「好悪」という感情は大変微妙な感覚だと思います。

 中国金魚で、「ライオンヘッド」なるらんちゅう型の金魚がいますが、私達日本人はその肉瘤を美しいと思えるでしょうか?その肉瘤は無闇にあがっていて目も見えないほどで、毛糸の玉に胴体が取ってつけたような体型で泳ぐこともままならない品種です。

 私はこれは、金魚の鑑賞方法の相違から来ているものだと思います。まさしく文化なのだと感じるのです。

 中国での鑑賞方法は金魚の「珍奇性」を第一義とするのだと思います。日本の歴史とともに培わてきた美的感覚は、中国から受容したものを換骨奪胎して独自のものとしてきました。

 漢字しかり、仏教しかり、盆栽しかり、そして現在進行形ではありますが、和製英語しかりです。私達祖先は、漢字を取り入れて、その中から「ひらかな」を発明しました。仏教は多くの宗派を生みながら、そして仏教芸術は歴史に多くの偉大な遺産を残してくれました。カタカナで表現される多くの外来語は、生活に密着する形で、英語圏では通じない言葉さえ私達の中で通用する言葉として日本語化してしまっています。

 金魚は、幸いというか不安定な遺伝的要素を含む生き物で、その変異性は僅か数百年で、本来中国伝来のものを、全く別の鑑賞方法や技術をして、日本化出来た最たるものと言えるのではないでしょうか。

 中国での上述したような「珍奇性」つまり奇をてらったもの、珍しい独特の形状を「家に福を呼ぶ魚」として珍重するという姿勢は、よりグロテスクなものをも包含した奇形性をより誇張したものを尊ぶという鑑賞方法となり、その全ての枠組みを外した中から遺伝の奔放で自由な発露に任せた淘汰方法となって、現在の中国金魚を好き嫌いは別にして、独特のものにしているのだと思われます。

 私達日本人の美意識には、様式美・形式美・整然とした美しさに対する飽くなき探究心があります。肉瘤に対してのそれは、中国らんちゅうとの相違として、連綿と続くその美意識の発露と言えるのではないでしょうか。

 肉瘤の分類はあくまで分類に過ぎません。
パラエティ溢れる形状、組み合わせは、鑑賞の幅を嫌が上にも増やし、私達の目を楽しませてくれます。獅子頭・おかめ・兜巾頭・突出した吻端は、龍頭が全てではないことを証明し、そんな了見の狭い考えを払拭してくれます。

 特徴のある頭には優劣が付けがたいことは他の場所でも何度も論じてきました。
さて、少し私達のその執拗なまでの肉瘤への固執の意味を探ってみましょう。

 私はらんちゅうの肉瘤に関して、女性美などの肉体美に通じるものを漠然と感じています。古来より女性の姿態は彫刻や絵画に描かれてきました。その柔和な曲線美や乳房の形状は、何か人間の懊悩を刺激してやみません。逆に男性の筋肉美も隆々とした美しさをたたえています。肉瘤と人間の肉体美とは何か共通点を感じずにはいられません。

 肉瘤など個体のある部分に注目すること、固執することを一般に「フェチ」と言います。
フェティシズム=フェティッシュ=フェチこれらの用語は同一の意味で、フロイトはその概念を便い、性的倒錯を説明しようとしました。例えば、女性の脚にのみ興味を示し、女性そのものには興味を示さない性癖など、目的が手段化してしまうような本末転倒したいわゆる精神病の一種としての概念です。

 フェティシズムとは経済学・心理学・宗教学で、使用される用語です。
偶像崇拝・象徴的存在・性的倒錯(狭義には)・呪物崇拝・物神崇拝・一つの物の意味の有り様に先立ちこだわるさま。性的倒錯などの人の内奥より溢れ出る癖または押さえ切れない何物かを表現する手段を、ある物にすり変えることによって充足感を覚えるありさま。

 こうやって見てきますと、フェティシズムの発動要因とは、人間に内在する機能として普遍的に刷り込まれたものかとも考えられます。

 醜悪なものに対する偏愛(フェティシズム)・美を見出す行為・形へのこだわりは、本能の壊れた動物である人類に付与されたものと言えるかもしれません。

 太古より刷り込まれた遺伝子は、美的なものと醜悪なもの、あるいは好悪感というものにおいて事物を峻別するはずでありますが、ある一点を突破すると、それは逆転してしまうメカニズムが存在するようです。

 人間に秘められたDNAの遥かな記憶は何かをキッカケに呼び覚まされ、それが偏愛の理由であるとも考えられます。美しさの基準は、官能の世界であり、それはエロティシズムとも深く関孫していると思われます。だから数字化などはできないし、個人の秘めたる才能に帰結するとも言えると思います。らんちゅうに還元すると、鑑識眼が数字化出来ない個人的才能によることで良く分かると思います。

 また、肉瘤を愛するが為に醜悪が美に転換される・・美はある飽和点に達すると、フェティシズムはやがてシンボリクム(象徴性)に昇華されます。それはまさしく新しい美の発見です。ある飽和点とは、らんちゅう鑑賞では、何百という金魚を見る事によって、より高次の鑑識眼が養われることであります.陶磁器の鑑賞眼や芸術は同じ道を辿ります。ここに至って、慣習・風習・文化・言語という歴史の縦軸との関係性が美という一点に収斂していきます。金魚という生物は、人間との関わり合いを持つ事によってのみ成立するものであることが理解できるでしょう。

 従って偏愛が先か美が先かという問いに対しては、当然偏愛が先であると断言出来ます。例えぱ、それぞれの時代の仏像を見て感じる美しさはどのように表現したら良いでしよう。仏像という一つの表現のフレームの中に、その作者は何を求めたのでしょう。鎌倉時代の運慶・堪慶は、仏教に帰依する、時代の新しい潮流である武士階級の清新な心根を仏像に込めたと言われます。猛々しさ、人を圧倒する力感は時代を象徴していますし、その表現方法は卓越しています。

 私達飼育者が表現者であるとするならぱ、仏像と同様に、一定の枠組みの中で何を美へと選択し、昇華させるかが何よりも重要なポイントとなります。総体的なバランスもさることながら、らんちゅうの場合、美しさの基準として、やはり肉瘤は最重要ポイントの一つと考えてもよいかもしれません。

 関西は、大坂らんちうの無きあと、肉瘤の重妻性を痛いほど理解し、それがやがては独特の肉瘤を持つ京都筋のらんちゅうへと引き継がれていくのは理の当然であったと思われます。

 美とは、森羅万象全ての事物から発見することが出来ます。人間の価値観(文化・習慣・言語〉から生まれ、不純物を人間の手で削ぎ落とし、磨き上げる事によってそれはやがて美的な普遍性を帯ぴるのです。病的なフェティシズムという概念を動員して私が論じていることは、醜悪な肉瘤が美へと昇華する過程を解き明かそうとする事であります。

 何度も言うようですが、肉瘤で一番というものは存在しません。今般は、龍頭がもてはやされますが、それ以外は認めないという態度は、それは視野が狭いと言うべきでしょう。何故なら肉瘤のバリエーションとは個体によってさまざまで、美醜の観点から言いますと、特筆すべき味のある肉瘤とは、いろんな形で存在するからです。これまた付言しておきますが、らんちゅうは肉瘤のみで評価出来るものではないとも申し上げておきます。

 以下に、京都のある会の品評会での画像を紹介しましょう。

この会は、独特の飼育方法により、肉瘤に際立った特徴を有する系統を維持している会です。私にとってこの会を見学することは、らんちゅうに対する狭い了見を払拭することが出来たと思うほど衝撃的でした。肉瘤に関して執筆しようと思った動機は、主にこの会を見学する機会に恵まれたからと言っても良いと思います。

 私のサイトでは、日本らんちゅう愛好会など、肉瘤をしっかりと規定して取り組む会をご紹介していますが、それにも増してその魅力は見た人でないと判らないとも言えます。

 この会は、大きさに関しては私達の魚に比較しても大変小さく、巷間、「まめらん」と言われる方があるようですが、その肉瘤の素晴らしさは特に目を見張るものであることは紛れも無い事実であります。頭の固い大きならんちゅうとそれとを比較した場合、私ならこちらを取るのは、肉瘤フェチとしては当然でしょう。

 持魚を見て愉悦に浸る瞬間は、時間の流れが止まるほど官能的ですらあります。

 肉瘤に重きを置くのも一興、惚れ惚れするらんちゅうの尾捌きに、鱗の細やかな並ぴに至高の悦びを覚えるのも一興、趣味の世界です。楽しみ方は人によってそれぞれ。何も否定しない相対的な鑑賞態度が芸術への方向性を見出してくれるのではないかと私は考えます。しかしながら、私の問いは依然、肉瘤フェチ、いえいえ金魚の中でもらんちゅうフェチという輪からは解き放たれようとはしないのではないでしょうか。

 



2001年1月 write