6.大坂らんちう復元南京・土佐錦・中国ハナフサ・獅子頭らんちゅう
西川氏の復元の方法を紹介しましょう。

まず、肉瘤の出難いらんちゅうと南京をかけられたそうです。その後、戻し交配をしながら選別淘汰を繰り返し、その間、平付けの尾の発現を考え、土佐錦を掛け合わしたりしたそうです。

部分部分を見ながらの復元で、体形は南京のような卵型を目指し、頭部は南京ほど尖らずに目幅を出すためにらんちゅうを使い、尾は土佐錦、また大坂らんちうの特徴のひとつである「鼻髭」欲しさに中国ハナフサを掛け合わすなどをされたようです。全く持っての試行錯誤の末の復元となったようです。

現時点での苦心されている事は、尾に集中しているそうです。つまり道具の中でも特に特徴的な「丸尾」の作出を考えていらっしゃるそうです。
7.大坂らんちうが何故絶滅したのかの謎
ここに、最後の大坂らんちうの絶滅の出来事を見てみましょう。引用は桜井氏のレポートからです。西川氏の父上の言です。

「私が復員してしばらくしてから、多分、四月か五月だったと思います。いつものように早朝池を見廻った時には気が付かなかったのですが、二度目に廻った時、オオサカランチュウの二歳魚二十数尾を入れていた池の異常に気づき、底に沈んでいた魚をあわてて取り上げました。しかし、その時はもう手おくれで、息たえだえの二〜三尾を除いてはすでに死んでいましたし、残ったものも手当ての甲斐もなく間もなく後を追い、結局一挙に全滅させてしまいました。原因は窒息死でした。思えば水がたしかに濁りすぎでしたし、前日の給餌量が多かったのかも知れない。また、いつも差し水をするのに、その日に限ってしなかったようだ。それより、もう少し早く発見していたらたとえ数尾でも助けられたかも・・・・・、あれやこれや思案も所詮あとの祭りでしかありませんでした。ともかく品種を絶やさないために心当たりを聞いてみよう。早速、和歌山市の同業の友人その他に照会しましたが、結局どこにも残っていませんでした。私が最後の飼育者だったわけでついに万策つきたわけです・・・・。」

何とも痛ましくも身につまされることだったことでしょう。かえすがえすも残念なことですが、何故あれほどまでに隆盛を極めた大坂らんちうが西川氏の池しか残っていなかったのでしょう。ただ流行であったからと言って済まされないように私は考えます。

大阪は空襲で焼け野原になりました。そして戦時中は金魚どころでは無かったのでしょう。それも大きな原因のひとつに考えられます。

大正年代には、交通の発達に伴い、関東らんちゅうが関西地方でも飼われだし、やがてそちらに人気が移っていったとも聞きます。

また、宇野先生が「らんちゅう花傳」において仰っていることには、あまりにも厳密な色の規定が災いして体形が疎かになり、総体的な魚の鑑賞がおざなりになったのも原因のひとつでしょう。

そのように考えていくと、大阪らんちうの絶滅には複合的な原因があると思われます。ですからある意味では悲運の金魚とも言えると思います。
8.当時の大坂らんちうの飼われ方道楽・お大尽・旦那衆
獅子頭らんちゅうもそうですが、当時の飼われ方は現在とかなり相違点があります。庶民的な金魚とは一線を画すものであったことは多くの書物から読み取る事が出来ます。

大きな違いは、今でも高級金魚と呼ばれているものは結構な値段が付いていますが、明治大正まで、まさしく「道楽」であったと思われます。江戸時代においても「風流な趣味」としての位置付けであったことは想像に難くありません。お大尽や旦那衆と呼ばれた豪商達の「遊び」として、自分で世話をするわけではなく、金魚飼育の雇い人を置き、いわゆるパトロン的な人々が大坂らんちうの担い手であったわけです。京都、大坂の商人文化によって培われてきた事を抜きには、大坂らんちうは語る事が出来ないでしょう。
9.現在の大坂らんちうの作出者について
西川氏は、戦後一貫して大坂らんちうの復元に尽力されてきましたが、ここに来て見直される気運が興ってきています。たとえば、弥富の金魚日本一大会においては「オオサカランチュウの部」なるものが設置され、それほど個体数は多くはないようですが、出品されているようです。フィッシュマガジン誌においてその写真等の報告もあります。しかし、その時に見た魚は、私達がイメージした大坂らんちうとあまりにも開きがありました。

西川氏もその件に関してはご存知でしたが、出品はされていませんし、その魚も見ていないとのことでした。

西川氏曰く、弥富や浜松でもオオサカランチュウを手がけている方はいるとのことでした。しかしその方達との交流はないそうで、その点においては各々が独自のアプローチをされているのだろうと思われます。

苦言を呈するようですが、あまりにも安易な形での商業ベースでのオオサカランチュウの流布は誤ったイメージを定着させて、これまでの西川氏の真摯な態度での復元を妨げるものでもあるように感じます。他の作出者の方達にお話を聞いたわけではありませんが、まだまだ時期尚早との判断で西川氏のように依然として公開を躊躇されているのに比較して、その個体の完成度はあまりにも低く感じられて仕方がありません。

また、プロ以外でもアマチュアの方がトライされているようですが、そのような方達がどれだけ大坂らんちうの知識や神髄を知って作出されているのかは大いに疑問です。何故ならば市場に出てくる魚を見ればそれはすぐにわかるというものだからです。

しかしながら、多くの方達の手によって真の大坂らんちうの復活を見たいのは金魚愛好家なら誰もが望んでいる事だと思います。私達としては、西川氏を筆頭に大坂らんちうの作出者の皆さんには、これからもさらなる努力をされて一日も早く完全なる復元を達成させて頂きたいものだと心から願っている次第です。
10.まだまだある疑問点
桜井先生の「金魚百科」には、大正時代の素晴らしい南京の写真が収録されています。それはまさしく卵型の立派な南京です。そのように南京においても貴重な写真が残されています。ならば何故これほどまでに華麗な歴史を誇る大坂らんちうに写真が残されていないのでしょう?どこかに必ずや死蔵されているに違いないと私には思えて仕方がありません。

また、斑紋であれほど沢山の規定がありますが、実際にあのような魚が出る確率たるやどんなものだったのでしょう? さらに私達がこれまでに見たことの無い「タスキ」などの斑紋は本当に実在したのでしょうか?遺伝学的にそのような斑紋が出る可能性はあるのでしょうか?

考えれば考えるほど、大坂らんちうは私達に色々な疑問を投げかけてくれます。これからも多くの人がこの魚に興味を持って頂きたいものだと私達は思います。

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